自由に書いていいよと言われたものの、実際はその自由というのがひどく難しかったりする。
自由な時間。
自由な生活。
自由な発想。
ともすればそれらは無秩序と驕りとエゴイズムの塊になりかねない。
自由とは時に放過や放逸と混同され取り違えられて、自分本位な解釈に陥りやすい。
そういった状態になり衝突や暴走を予防するための次善策が今の自由である。
我々が享受している自由の多くは見せかけや、法や規律の下で整えられている。
野放図な自由を防ぐためにはやむを得ないことだろう。
そんなことは誰だって分かっている。
自由とは己を律し折り合いをつけてほどほどにやらねばならないものだ。
自らを由とするその字面通りだ。
だからといってそう易々と自らを寄る辺にできないのが人間でもある。
自由に書いていいよと言われても、何かに基づいて書かねば不安を覚える。
だからこうしてあれこれ考えた挙句に、結局は内容が薄い言葉を飾り立てるために弄言に走っている。
一文書けば済むことを長々と文章にして弄んでいるのだ。
それら文章の集合、統括、統合によって感情を動かしてみせたり、共感を覚えさせたり、或いは代弁してみせたりと。
小説とは我々が本来持っているけれど忘れてしまった、失ってしまった感情や知識を想い起こさせるシステムの一つである。
俗にいうアナムネシス(想起説)である。
先駆者、或いは前衛という名を与えられた当誌が、その一助になれば創設者にとっても喜ばしいことではないだろうか。
自らを由として掲載した作品が作者の自己満足などという結果で終わらずに、読者達にとっても良しと成される作品であってほしい。
以上、自由に書き散らさせていただいた次第である。